2019/2/4

表現することは素晴らしいことだと最近思うようになった。

ある映画の撮影に参加しているとき、スタッフのNさんは「H監督は、誰でも映画がつくれることをこの映画で証明しようとしている」と言っていた。そのとき僕にはその価値がまったく理解できなかった。誰もが映画をつくる必要はないし、つくれる必要なはい。才能のある、選ばれた人だけが映画をつくればいいのではないか、と。

しかし、今だったらその価値がよくわかる。表現することは、その人自身が生きることを強く励ます。それだけで、とても価値があることだ。別に傑作をつくる必要はない。自己満足だとしてもそれでいい。

長編の脚本を書き上げたこと、介護がテーマの市民ミュージカルを見たこと。これらの経験が、数年前の問いに解答を与えてくれた。そのことを実感できた今、世界の見方が変わっていくような気がする。

2019/1/28

ヒューマントラストシネマ有楽町でグザヴィエ・ルグラン『ジュリアン』を見た。少年ジュリアンが父の車に乗って、シートベルトを閉め、父の実家に行き、祖母の家に帰り、秘密の新居に行き・・・という往復型ロードムービーだった。これだけでも映画になるんだなあ。フレームの隅っこにおいやられて父親に詰問されるジュリアンや、110番通報先のオペレーターをキチンと登場させた本作を楽しんだ。

一方で、姉の妊娠や通報した隣人のおばあさんは放置のまま終わっちゃうんかいなということも心に残った。

前々から兆候はあったけれど、突然一線を越えて狂った父親、という描き方はあんまり関心しないなあ。

2019/1/7

上野千鶴子小倉千加子「ザ・フェミニズム」を読み進める。結婚制度についての指摘を下記に引用する。

最近、私は結婚というものをこう定義してるんです。「自分の身体の性的使用権を生涯にわたって特定の異性に対して排他的に譲渡する契約のこと」っていうんです。すごいでしょう。

こんなにおぞましい契約をキミたちやってるんだよ、と言うと、「ルール違反もやってますよ」と言う人もいるけど、ルール違反はルールがあるからで、最初からそんな契約しなきゃいいじゃない、と思うんだけど。(上野)

 

シネマヴェーラサミュエル・フラー『拾った女 Pickup on South Street』。非常に面白かった。ハイライトは女が冷徹な暴力を振るわれるシークエンスだろう。ほんとうにぶん殴られ、家具に激突し、電気スタンドが倒れる。すごいなあ。地下鉄駅内での大暴れもすごい。一体どうやって撮っているのだろう。かなりリスクのある撮影だ。フラーの自伝が出ているので近いうちに読んでみようと思う。
もうひとつのハイライトはスリ男と女のキスまでの触れ合いタイムだ。川の上に建つスリ男の家で、フィルムを探していた女。男にぶん殴られて、気絶し、意識を取り戻したあと、スリ男と長々と顔をくっつける。凄まじくエッチなサスペンスだった。この緊張状態はキスをすることで解消される。女の地下鉄内での白い衣装、男たちがターザンのツタ渡り(ワンカットで!)や手動エレベーターでの脱出を見せてくれるのも忘れがたいと思った。

つづいて、ジョセフ・H・ルイス『拳銃魔 Gun Crazy』。雨の中のショーウインドウ越しショット。動物のように撮影された少年時代の主人公。車で逃走中の男女を後部座席から撮った長回し。主人公たちがやたら物を落としたり、ずっこけていた。

2019/1/5

シネマリンで北野武Hana-bi』を見る。主人公の男が独自の規則で生きているように、この映画自身も独自の規則を持ち得ている。冒頭から時間が狂い出し、出鱈目のように人が死にあるいは生き残り、最終的には空間と季節が歪んでいた。堂々とした作家の映画であった。